GX WebLog

自動車、モータースポーツ、携帯、デジカメ、Mac等の多趣味人間向けブログ

リチャード・バーンズ逝去

マイケル・パークに続きリチャード・バーンズまで亡くなってしまうとは。。。
なかなか元気な顔を見せないと思ったら、悪性の脳腫瘍だったのですね。まだ34才。とても残念です。

以下、wrc.com の日本語訳です。自信無いですが。

リチャード・バーンズ : 1971-2005

イングランド人で唯一ラリー界のトップに登り詰めた元世界チャンピオンのリチャード・バーンズは、脳腫瘍のため2003年の終わりから戦列を離れていました。 2001年のタイトルを勝ち取るまで、三菱、プジョー、およびスバルで世界ラリー選手権キャリアを積み、亡くなるまでの13年間で10回の勝利を上げました。

バーンズの家族の声明文には「当初から、リチャードは、治癒の可能性が低いことを知っていました、しかし、彼は持ち前の勇気とユーモアで病気と戦いました。」と書かれていました。「化学療法と放射線療法の両方を受けたので、彼は2004年夏に退院することができました。」しばらく、彼の健康は改善の徴候を示しましたが、6カ月後に、悪化していきました。
「彼は治癒をあきらめず、今年の初めに外科治療(腫瘍摘出手術)を選びました。」これにより、彼の病気の兆候のいくつかは軽減され、元気に生活できるようになりました。 8月のカースル・クームでは、彼のキャリアの中で運転したラリーカーのパレードに出席し、談話も発表されました。「しかし奇跡は起こることなく、ここ数日で、彼は昏睡状態に陥りました。」

追悼式の詳細は、後日発表されるでしょうが、バーンズの家族は密葬を予定しています。カードかメッセージをEcurie Albion、WheelwrightのCottage、Shilton、Burford、OX18 4AA または www.richard-burns.co.uk/memorials に送ることができます。

バーンズのラリードライビングは、近年の『Flat-Out Sideway(スライドさせない走行)』の草分けで、彼のライバルは彼のアプローチを考え深くて、分析しています。また、彼は長年の友人でライバルのコリン・マクレーとともにイギリスのニューウェーブの1人でした。特に2人ともスバルで評判を上げたことで、日本のチームとそのディープ・ブルー・カラーは彼らの代名詞になりました。

バーンズは、イギリスのプジョー205のワンメークシリーズで優勝した1990年に初めて脚光を浴び、評判は上昇はしました。年末には、彼のホームイベントであるRAC Rally(現ラリーGB)でWRCデビューを果たし、 28位で完走しました。次に、バーンズは1993年にスバルの若手育成プログラムに加わり、Legacy RSでイギリスのタイトルを勝ち取って、その年のRAC Rallyで総合7位で完走を果たしました。

スバルでいくつかのWRC出場後、バーンズは1996年に三菱に移り、1997年のサファリ・ラリーで2位を獲得しました。1998年には世界チャンピオンのトミー・マキネンと組んでフルシーズンを戦い、同じサファリ・ラリーでWRC初勝利を挙げました。そして、1999年にバーンズはスバルに戻りました。2000年のタイトル争いではマキネンに惜しくも敗れましたが、2001年の選手権ではプジョーのマーカスグロンホルムとの激しい争いの中、バーンズのホームイベントであるラリーGBで3位に入り、初のワールドチャンピオンを獲得しました。

そのシーズンオフにプジョーに移籍しグロンホルムとパートナーを組んだバーンズは、周囲からトップドライバーである2人がどのような接戦を繰り広げるか期待されました。フランスチームでの最初の年は、206WRCでうまくグリップを得られず苦戦しましたが、2003年はもっとも完走率の高いドライバーであり、チャンピオン争いはよつどもえの戦いの中、最終戦にまでもつれ込みました。2004年のスバルへの復帰を前に、プジョーでの彼の最後の出来事が星状細胞腫(有毒な脳の腫瘍)と診断された病気でした。以来彼は治療に専念することとなりました。

wrc.com のスタッフは最も深い弔慰をリチャードの友人と家族に捧げます。